「それぞれの人が『惑星』になってないと。見たら宇宙全体を感じられるようなね。衛星じゃだめなんだよ。そんなオーラのある人とは滅多に出会えないからね」
キャプション:中国製カメラ「海鷗」を持った青年1986
「"Each person must be a'planet'. You can feel the whole universe when you see it. You can't use satellites. You can rarely meet people with such an aura." 」
Caption: A young man with A Seagullcamera,made in China1986
「ポートレートは時間。その人が来た時間、これから行く時間を撮るんだよ。それは内面性と言ってもいい。そうしたら、情報の少ないモノクロで、背景は無地に行き着いたんだ」
キャプション:遠くから歩いてきたと呟いた青年1999
"Portrait is time. I take the time when the person came and the time to go. It can be said that it is internal. Then, it was monochrome with little information and the background was plain."
Caption:A young man who had walked here from far a way 1999
「人に思いを馳せるというのは贅沢なことなんです。だから表現というのは、人生において一番贅沢な遊びなんですよ。」
キャプション:大工の棟梁1985
It's a luxury to think about people. That's why expression is the most luxurious play in life.
Caption:A chief carpenter 1985
僕は100年前の人が見ても100年後の人が見ても納得できる写真を撮りたいと思って撮り続けてきたから。
キャプション:おばあちゃんと参拝に来た少女1973
I've been taking pictures that people
100 years ago and 100 years later can understand.
Caption:A girl came her grandmother to worship at the temple 1973
浅草という土地柄、かなり突飛な恰好の人は沢山見かけられるけど、それだけでは撮らない。着ている物がその人の皮膚のように一体化して見える、あるいは、その人が秘めている「何か」がヤニのように人体から染み出して、なおかつ神々しい人。つまり、自然じゃないとダメ。
キャプション:「むろん本物よ・・・」という女2007
There are a lot of people in Asakusa who look quite outlandish, but I can't shoot by themselves. A person who looks like the person's skin is united, or the "something" that the person has hidden oozes out of the human body like a human, and is divine. In other words, it must be natural.
Caption:A girl who said "Of course it's real!"2007
僕が人を撮るときには、変わっているとかどうとか、キャラクターだけでは決して選ばない。この人を撮ることで「人類とは何か」という謎に迫れる、人間というものの本質を考えさせられる“何か”を持っている人に呼応して撮る。何というか、そこには必然性があるんだよね。
キャプション:農協の慰安旅行の男 1986
When I take a picture of a person, I never choose the character alone, whether it's strange or not. By taking a picture of this person, I take a picture in response to a person who has "something" that makes me think about the essence of human beings, who can approach the mystery of "what is human beings". After all, there is an inevitability
caption:Agricultural Cooperative Comfort Trip Man 1986
わたしの写真は、残念ながら観る人たちに何ら有益な情報を提供するような表現ではありません。ただただ、観ていただく人の体温のある想像力だけが、わたしの表現世界を支えてくれると考えています。
キャプション「春の散歩日和1974」
マニュアル化された笑顔は、 街のあちこちで 見ることができる。 しかし、顔の表面だけが 笑った笑顔では、 人の心を 動かすことはできない。 その人の存在から 沸き上がるような笑顔こそ、 本物の笑顔。
キャプション「女系家族 1974」
写真を仕事として選んだ者の「夢」を語れば、撮った「作品」が、あらゆる地域の人びとに、しかも、生きている今の時代を超えて、違った時代の人びと響きあえれば、と願って撮っています。
キャプション「浅草芸人プチャリンさん 2012」
写真家が人を撮る目線は、特別視でも客観視でも蔑視でもない、上でも下でもない同一線上。なぜかというと、人を撮ることで、撮られているのは自分でもある。写真には、必ず他者と自分との関係が写るから。 キャプション「真っ直ぐな視線 2006」
浅草は自分と変わらない体温を持ってる人達がいるんだなぁ…と非常に自分は安心する。
キャプション:高価な着物の人 2000
あまりにも強い「情報」のかたまりの風景は、写真にするのがむずかしい……。強い写真は一方的に見る手に「意味」を注ぎ込み、見返すために必要な想像力を限定するからだろうか。
キャプション「蝉を握る少年 1976」
「表現というのは、頭で考えたものしか出せないんだよ。言わば、考えないで表現なんてできるわけない。考えるにはどうしても言葉が要る。言葉にできない写真は、写真じゃないといってもいい。」
キャプション「入れ歯まで冷たい日だという老人 1985」
「 いい笑顔は、毎日の積み重ね。」
キャプション「仲良すぎるカップル 2000」
「写真が写真を導く。私の写真が私を押してくれる。」
キャプション「マントを着たウサギ 1985」
どこから来たとか何してるとか、その人の話を聞きながら、ちゃんと自分の中にその人の存在が作られないうちはレンズは向けない。
キャプション「汗で化粧が崩れるワ・・・1986」
「どの時代の人にも、どの世界の人にも『この人かっこいいだろう!』『日本人ってかっこいいだろう!』と思ってもらいたくてシャッターを押す。」
キャプション:銀ヤンマに似た娘 2011
「何かを問い続けることが出来る手段は文学とか絵画でもある。 写真でもそういうことがあるだろう。 ずーっと興味がつきなくて同じ道をずっと歩いている。 私の場合は、人を撮るしかない。」
キャプション:ねんねこの人 1986
「見てくれた人が『あー人間は自分が思っている以上に素晴らしいものなんだなー』と思ってくれたら写真はいいものになる。」
キャプション:「タバコをめぐんでくれないか・・・」という男 1985
「それぞれにこの人はどういう仕事をしてきたのかな、 これからどこに行くのかな。と考える。 物語をたくさん全部背負ってるでしょ。 生きるってそいう事だから。」
キャプション「仲居 1985」
「ハッと裸の目が驚いたものを撮りたい。」
キャプション:「昨夜、つい酔っ払って喧嘩をしてしまったという男 1985」
「その人がどういう時間を過ごしてきて、これからどういう価値観で生きていくんだろうとか、思える人じゃないと声かけたりできないですよ。」 キャプション:保険外交員 1984
「人と人との関係はを考える道具のためにカメラはある。」
キャプション:建築解体作業人 1985
「人間の存在の根源的なあり方を、写真によって表現するために、人を撮り続けている。」
キャプション:髪の長いOL 1987
「人と人との関係はを考える道具のためにカメラはある。」 キャプション「たくさんの衣装を持ったお姐さん 2002.5.13」
「人を考えるっていうことは回答のない質問みたいなもので、ずっと繰り返してずっと飽きないというのは(人)を 考えるということが基本にあるかもしれない。」 キャプション「和菓子職人 1990」
「自分の作品は故郷の素の私の中に飲み込んだ故郷がいっぱい出てる作品だと思っています。」
キャプション:私の東北訛りに、死んだ友人を思い出し泣き出したひと 1999
「すごい個性的な人たちがたくさん写っていると思うけど、個性が一過性の個性みたいなのはだめで、日常生活が例えば着ている服にしてもその人の個性が皮膚みたいに なってて人格を立ち上げないとだめ。」
キャプション「近郊の履物屋をやっているというひと 1985」
「存在感に溢れた人々を、より一層格好良くまるで舞台に立つ主人公のように、撮りたいといつ思っている。」
キャプション「日にちを間違え、花火大会と思ってきてしまったというひと 2000」
「人を眺める事が一向に退屈を覚えないのは、それぞれの人生物語をいっぱい背負った人が多く、想像力を刺激したくさんのドラマを語ってくれるからだろう。」
キャプション:「外国暮らしが長かった婦人 1995」
「写真を撮りながら、ひとの愛おしいさの研究をしている。」
キャプション:「苗木の面倒を見ていると語る老人 1998」
「良い写真とは、過ぎ去った時間までも揺らし、かなた時代に生きていたひとと同じ時間を共有しているような、『錯覚』と赤の他人に思いを馳せらす自由を観るひとに与える。」
キャプション:「カラスを飼う男 1995」
「たぶん、懐かしさをたくさん持った人ほど、それぞれの肖像の生の声を聞くことが出来る」 キャプション:「 28年間、人形を育てているというひと 2001」
「たぶん、懐かしさをたくさん持った人ほど、それぞれの肖像の生の声を聞くことが出来る」
キャプション:「人形と一緒に28年間暮らしているひとの夫 2001」
「自分とは何か」「人生とはなんぞ」というようなことを考えざる得ない人生の底に沈んだときに依って立つ思考というのは、子どもの頃に見た風景、自然、情景、土地の匂い、空の色、人の温かさとか、人それぞれに「憶えていること」なんだよね。
I have to think about "what I am" and "what is life" The thoughts that stand on when I sink to the bottom of my life are the scenery, nature, and scenes I saw when I was a child. The smell of the land, the color of the sky, the warmth of people, and so on, are things that each person "remembers."
記憶を旅するように撮るということでは、インドだね。インドに行くと、自分の記憶にある郷里、醍醐村(山形県、現在は寒河江市)の風景、たっぷりとした自然とともにある人々の暮らしが思い出され、そこでまた呼び起こされるものがある
It's India when it comes to taking pictures as if traveling through memory. When I go to India, I remember the scenery of Daigo Village (Yamagata Prefecture, now Sagae City), the life of people with plenty of nature, and there is something that evokes it again.
「この人が僕の人生であってもよかったのかもしれないと思える人を撮りたい。海外、インドやトルコで撮っているときにいつも不思議な感覚にとらわれる。僕がこの地に生を受けていたら、僕は彼だったのかもしれないという。人を撮るというのは、その人の中に自分を見るということ。」
キャプション「カメラを売らないか・・・」と訊く男1982 他2枚に写ってるのは当時の鬼海弘雄です。
「カメラマンは真正面で撮る。それが人間関係を作ること。」 キャプション「水蓮を持つ少年 1997」
「海外に出ると、自分の中にしまっているイメージの引き出しが開くんだよね。熱帯のインドと自分が育った雪国の山形とは全く違う世界なんだけど、でも、そこに生きる人々の姿や村々の生活に自分の記憶が吸着する。そういう人の感情や情緒に、日本的なもの、外国的なものという区別はない。普遍とは何かといえば、「時間をまたぐ」ということなんだね。」
写真に限らず表現の基本的な目的は、あらゆる人を少しだけ自由に開放するためのささやかな方法だと信じています。共有する夢の見果てぬ夢の創成への歩みの試み。世界と人間をそれぞれの人が他人と自分を好きになるために……。
キャプション「幼馴染の日向ぼっこの語らい 2000」
「写真表現の圧倒的な強さは、見てくれる人の中に眠っている感覚を呼び覚まして、震わすことができるんですよ。抽象化することなく、地面に足をつけたまま、具体を通してだれもが手触りのある普遍性を表現することができる。文章を書いて、知らないことを上から啓蒙するんじゃなくてね。人間はどう生きたらいいかとか、もう少し人間らしくなりたいとか。自分たちの中に眠っているものに、もう一度、バイブレーションを起こす。そういう意味で音楽にも似ているのかな」
キャプション「祭りの午後の銭湯 1977」
「人の住む場所としての町を撮りに、漫然と東京を歩き続けている。特に課題は決めてはいない。ただ生活の匂いと人びとの普段の営為の影のある場所とだけ決めているので、行き先はその日の気分次第だ。」
キャプション「品川区東品川 1976」
「無機質な写真は、スポンジのように時間とエネルギーを吸い込む。」
キャプション「投げられたボール 1976」
「人の等身大の営みが続く町には、電子統計が正確無比に刻む商業都市空間とは違った時間が今でも流れ続けている気がする。」
キャプション:「江東区東砂 2002」
「ただ漠然とひとの住む場所としての町、暮らすひとびとの日々の営為の影や匂いをとおして『場所の肖像』のようなものを撮れないかと思い街を撮っている。」
キャプション:「豊島区池袋 1989」
「目の中で風景をトリミングしている。いかにいらないものを省くかが肝心」
キャプション:「品川区大井 2003」
ますます功利に傾斜しがちな現代社会では、他人に思いをはせることが、生きることを確かめ、人生を楽しむコツだと思っている。そのことによって、誰もが、他人にも自分にさえもやさしくなることができるかもしれないという妄想を持っている」
作品は鬼海弘雄が撮影した夜間中学です
「写真は、強い倫理的なメッセージを送るとかじゃない。 答えはない。ただ問いだけが残る。 答えは俺ぞれ人が感じればいいこと。それが個人が写真を撮ることの意味だと思う。」
作品となるような写真は実に写らないものだと気づかされたときからです。それを契機に、わたしは写真家になったと思っています。
「マグロ船でに乗ってる時も思ったが体を動かして働いてる人はとても魅力的だ。」
人間の感受性の根本っていうのは、一番は子どもの時に体験が根っこになっててあらゆるものを乱反射したり、色んな形で屈折したりするんだと思う。
とにかく「こんにちは」とか話しかけること。
盗み撮りはやっぱダメ、撮ってる人と撮られてる人の人間関係が写ってるから。
人間がカメラを持つ事はそういうことだと思っている。
キャプション「人懐っこい少年 2005」